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2024/06/19(水)Vol.496

新「起承転々」 漂流篇 vol.87 公共事業
2024/06/19(水)
2024年06月19日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.87 公共事業

公共事業

 英国ロイヤル・オペラ日本公演の初日を直前に控え、慌ただしい日々を送っている。オペラの引っ越し公演は通常秋に開催することが多いのだが、今回6月にやることになった理由は、指揮者のアントニオ・パッパーノが22年つとめた音楽監督を、今シーズンをもって退任するからだ。この日本公演が退任の花道になる。すでに退任までのカウントダウンが始まっているようで、なにか特別な緊張感が伝わってくる。
 前回の本コラムで2月に公演したパリ・オペラ座バレエ団が連日満員御礼だったにもかかわらず赤字だったことを書いたら、想像を超える反応があった。SNS上では7万7千人もの人が目に留めてくれたようだ。じつは今度のロイヤル・オペラ日本公演はパリ・オペラ座バレエ団のときと比べものにならないほど大きな赤字になるのだ。信じられないだろうが、オペラの引っ越し公演は毎回大きな赤字をつくっている。それではどうして赤字事業を続けているのかという声が聞こえてきそうだが、NBSは公益財団法人だから、これまでのオペラ引っ越し公演の社会的、文化的な意義と、NBSの存在価値でもあるという判断から、何とか継続しているというのが実情だ。本来なら、これは文化的な公共事業のようなものだから、私は常々もっと財政基盤がしっかりした公的機関が手がけるべきではないかと思っている。
 ここのところ、このコラムに取り上げていることは悲観的な話ばかりで、読んでくださっている方は日本の舞台芸術の先行きは暗いと感じているのではないかと心配している。コロナ禍を何とか乗り切ったと思ったら、想定外の歴史的な円安が待ち構えていたし、次にはNBSの存続に関わるような劇場不足の問題が控えている。それにいま私がもう一つの問題として捉えているのが、舞台スタッフの高齢化と人材不足だ。コロナ禍により我々の業界は大打撃を受けたから、他業種に転出した人もいる。そのうえ働き方改革が叫ばれ、労働時間の制限が厳しくなっているから、ますます人手不足に拍車がかかっているのだ。NBSのオペラやバレエの公演活動は、舞台スタッフなくしては成立しない。オペラやバレエは歌手やダンサー、オーケストラなどの出演者はもとより、舞台の裏方や事務方がいて、これらが連携し一体となって公演を創り上げている。公演の現場はさまざまな専門職の人が緊密に連携しながら働いている、小さな社会なのだ。
 ある舞台関係の会社が自社のホームページに求人情報を出したところ、問い合わせがあったのは就職斡旋業者ばかりだったという笑えない話を聞いた。スタッフの高齢化が進む一方、新しい人材がなかなか入ってきてくれない。新しい人材が確保できなければ公演に支障が生じるという状況に陥っているのだ。最近、テレビなどを見ていると転職をけしかけるコマーシャルをたびたび目にするが、より良い条件を求めて安易に転職するのが常識のような風潮になっている。最近では退職代行サービスというものまであって、退職したい人と会社の間に入って調停するらしい。もし、トラブルになっても代行して解決してくれるので、ますます転職がしやすくなっているようだ。
 私のような昭和世代から見ると、いまの若者の仕事観は劇的に変化している。昔、日本は終身雇用が当たり前で、会社を辞めたと言うと何か問題を起こしたのではないかと疑われるくらいだった。職人のように同じ仕事を長く続けて経験を積むことによってこそ、一人前と認められるまでの仕事ができるようになったのではないかと思う。もちろん、転職によって道が開けることもあるが、隣の芝生が青く見えるからといって転職を繰り返していたら、いつまでたっても半人前のままだろう。私はこの変化が日本の衰退と関係しているのではないかと思っている。国も企業も団体も、すべては人次第ではないか。優秀な人材が多く集まり、それがきちんと機能すれば組織は発展する。
 近年、自分の趣味や好きなことをやって生きていくにはどうしたらいいか、と考える人が増えているらしい。中長期的な視点をもってキャリアを考えている人は少なく、状況に応じて変わり続けることが大事だと考える傾向が強いのだという。だから3~5年我慢して下積みをすることを嫌い、いま好きなことに向かっていくという刹那的な動きになっているようだ。
 若い人たちにはどういう仕事で生きていきたいのか考えてほしいものだ。全身全霊で打ち込める仕事を見つけてほしい。人生のどこかで人はとことん仕事に打ち込む時期があってこそ、プロになれるということを忘れてはならない。「エシカル就活」という言葉があるそうだ。エシカルとは倫理的という意味だが、企業の規模や知名度ではなく、環境問題や社会問題への取り組みなど、自分と企業の価値観がどれくらい合致するかを重視した企業選びのスタイルを指す造語らしい。自分が好きなこと、やりたいことができなければ、いくら報酬が良くても働いていてきつくなる。楽しいとか、好きだとか、自分が輝ける場で働きたいと思う人が増えているのは歓迎すべきことだろう。
 我々の舞台の仕事は夢のような時間と空間を売ることだ。公演を観た人に感動を覚えてもらうことで、元気が出たり慰められたり、希望が湧いたりと、人生の潤いになればと願っている。文化は水や空気のようなもので、人間が生きていくためには重要な環境問題と同じだ。こうした仕事も「エシカル就活」の対象になり得るのではないか。この仕事は人間の精神面における公共事業ではないかと思う。舞台の仕事に興味があり、同じ価値観を共有できそうな人は、どうせ転職するなら、ぜひ我々の舞台芸術の世界へ入ってきてもらいたいものだ。
 残念ながら、わが国は欧米に比べ芸術文化にはとても冷たいが、今後も次々に襲ってくる難局を乗り切るためには、仕事に情熱をもつ若い人のエネルギーが必要だ。私自身、遠くない将来、いまの職務を退任することになるが、若い気概のある人たちにぜひ舞台芸術の世界の扉を叩いてもらい、後に続いてほしいと切に願っている。

髙橋 典夫 NBS専務理事