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2024/05/22(水)Vol.494

新「起承転々」 漂流篇 vol.86 興行と文化事業
2024/05/22(水)
2024年05月22日号
起承転々
連載

新「起承転々」 漂流篇 vol.86 興行と文化事業

興行と文化事業

 ゴールデンウィーク最終日の5月6日に、東京ドームでボクシングの井上尚弥とルイス・ネリの試合があった。4万人を超える観客が集まったという。私も若いころはボクシングの試合があるたびにテレビの前に釘付けだったが、馬齢を重ねるうちに熱が冷めてしまっていた。今回のボクシングの試合は東京ドームでは34年ぶり、日本人初のメインイベンターといった話題性もあり、久々に緊張感をもってテレビ観戦した。リングサイドの最高席が22万円というのにも驚いた。開始早々第1ラウンドに井上が簡単にダウンを奪われたときには、あっけにとられた。一瞬、このまま井上が負けてしまうかもしれないと感じたが、同時にそうなったら4万人を超える観客はどんな反応をするのだろうと思った。そうした思いが頭をよぎったのも、私の職業病のようなものかもしれない。第2ラウンドに井上はダウンを奪い返し、余裕すら見せるようになる。その後は完全に優位に立ち、第6ラウンドの1分22秒でネリをTKOで撃退した。現世界スーパーバンタム級4団体統一王者として見事4本のベルトを守り抜いたのだ。
 我々のオペラやバレエの公演も、業種としては興行に分類されるから、いまさらながらボクシングの試合と共通点が多いと感じる。今回の場合、やはり井上尚弥というスーパースターの存在があってこそだ。"モンスター"と称される井上と、"悪童"との異名をとるネリの果し合いを見たさに4万人を超える人々が一堂に集ったのである。一説によれば二十数億円の興行収益になるのではないかとのこと。興行的には大成功だったろう。
 一方、我々が手がけるオペラやバレエの公演は、さまざまなリスクを抱えながら実施しているが、入場料収入だけで採算をとることはほとんど不可能に近い。同じ興行のジャンルで形態が似ていても、ボクシングの興行とオペラやバレエの文化事業とはまったく違う。海外で上演される主要なオペラやバレエの公演は、公立の劇場により公的資金を使って開催されているから、そもそも非営利が前提なのだ。
 今年2月にNBSはパリ・オペラ座バレエ団の招聘公演を実施したが、全10公演連日大入り満員の状態だった。ところが、これまでの私の経験からしても信じられないのだが、赤字になってしまったのだ。決定的な要因はこの歴史的な円安だ。加えて航空運賃や宿泊費、海上輸送費など制作経費の高騰が足を引っ張っている。航空運賃はひと頃の倍になっているし、舞台装置や衣裳などの輸送費は、航路が戦争の影響でスエズ運河経由から南アフリカの喜望峰回りに変更になったことから大きく嵩んでしまった。コロナ禍後、インバウンドが急増しているからホテル代も高騰している。働き方改革の影響もある。劇場で働ける時間の制限が厳しくなって、その分、人員を増やさなければ限られた時間内に収まらない事態も起こっている。いまオペラやバレエの制作現場は猛烈な逆風にさらされているのだ。
 歴史的円安で苦しんでいるところもあれば、喜び勇んでいるところもある。この円安によって日本企業の70パーセントが増益だという報道もあった。輸出関連の企業が多いのだろうが、そうした企業は為替差益という、いわばアブク銭で儲かっているのだから、内部留保など考えずに、その一部を円安で苦しんでいる輸入業ともいえる我々のような非営利の招聘文化事業者に回してもらえないものか。寄付をしてくれるなり、公演のチケットを買い上げてもらえると助かるのだが、虫がいい話だろうか。
 非営利のイベントなどで、クラウドファンディングで寄付を募って開催に漕ぎつける例がある。NBSの主催公演も入場券を買ってもらうことを寄付と見立てれば、その資金があってはじめて公演が実現できているのだから、クラウドファンディングのようなものではないかと思う。ただ、クラウドファンディングはお金が目標額まで集まらなければ、不成立だったということで許されるだろうが、我々は入場券が売れないからといって、公演を中止するわけにはいかないのだ。招聘公演についても社会的な意義を認め、存続させるために寄付をする気持ちをもってチケットを買ってもらえるとありがたいのだが、この私の願いは我田引水に過ぎるだろうか。
 コロナ禍では散々な思いをしたものの、幸いなことにコロナ禍対策の助成金を得られたから何とか切り抜けることができた。ようやくコロナ禍の長いトンネルを抜けたかと思ったら、次に待ち構えていたのがこの歴史的な円安だ。このままの状態が続けばNBSは招聘事業から撤退せざるを得ないというのが、つねに現場に立ってきた私の実感だ。この悪い流れに歯止めをかけられるとしたら政治しかないが、そもそも政治が劣化しているのが根源的な問題かもしれないと思っている。経済と文化は車の両輪ともいわれるが、経済が落ち込むと文化も衰退することが如実に表れている。確かなことは、この異常事態を生き延びるには、これまでとは違う異次元の対策が必要だということだ。日本も我々も過去の栄光と決別し、激変する時代に合わせて変わらなければならないのだ。
 この状況下で、NBSは6月に入ると英国ロイヤル・オペラ日本公演に突入することになるのだが、頭が痛いことだらけだ。選手が一対一で闘うボクシングの試合と違って、オペラは英国ロイヤル・オペラの場合で、総勢300人に近い。しかも劇場は1回の公演で2000人余しか入らない。今回は8公演だから約2万枚のチケットを売ることになる。前述したボクシングの試合の半分だ。生の舞台も一期一会の特別な体験という点で、井上尚弥とルイス・ネリの試合と同じようなものだ。ボクシング・ファンが井上尚弥の勝利に熱狂したように、オペラ・ファンには英国ロイヤル・オペラの『リゴレット』と『トゥーランドット』に熱狂してもらいたい。感動はプライスレスだが、総合芸術であるオペラの感動は五臓六腑にしみわたって、生きる喜びを思い返させてくれる。

髙橋 典夫 NBS専務理事