シルヴィ・ギエム公演レポート シルヴィ、ダンサーとして最後のプログラム、ロンドンで公演! ラッセル・マリファント振付「ヒア・アンド・アフター」より photo: Bill Cooper

 シルヴィ・ギエムの最後のツアー、〈ライフ・イン・プログレス〉。サドラーズ・ウェルズ劇場でのロンドン公演は瞬く間にチケットが完売し、筆者が訪れた5月27日も会場中が異様なほどの熱気に包まれていた。
 100年に一度の天才と謳われ、19歳の若さでパリ・オペラ座バレエ団のエトワールに任命されながら、自らの意思で選択することの自由を守るためにあっさりとその地位を捨て、以来独立独歩で歩んで来たギエムのダンス人生。最後となるプログラムでも、そんな彼女のダンサーとしてのあり方を集約するかのように、果敢にも2つの新作に挑戦した。自らの意思を貫いて舞台を去ろうとするその潔さに、多くの人々が女性ダンサーの新しい引退のあり方を観たのではないだろうか。
 『テクネ』は、ギエム自身の環境問題への関心をインスピレーションにアクラム・カーンが振付けた、示唆に富んだ新作。冒頭、暗闇に一本の木が照らし出され、そこへ、しゃがみ込んだままの姿勢で前進しながらギエムが登場する。生気のない木の周りでカーン独自の素早い動きを繰り返し、床を転がるギエムは、虫のようでもあり、人間のようでもあり、あらゆる生き物を象徴しているかのようでもあり、何かを木に伝えようとするその必死さと無力さに、静かな悲哀を感じずにはいられない。鼓動、風の音など、私たちを取り巻く自然界の様々な音の中で、ギエムのひときわ長い指が、そこだけ何か別の意思を持った生き物のように動くさまに、これまでに観たことのないギエムの一面を観たように思う。
 ラッセル・マリファントによる新作『ヒア・アンド・アフター』では、ギエムは自身でも初となる女性同士のパ・ド・ドゥに挑んだ。マイケル・ハルスによる切子細工のように繊細な模様を描く照明の中で、エマニュエラ・モンタナーリとギエムが、絡みあった2本の糸のように流動的で、動く彫刻のように詩的な動きを見せる。後半からは、それまで静的だった踊りがダイナミックなパ・ド・ドゥへと展開。ヨーデルのようなオプティミスティックな音楽の中、舞台を照らす照明の動きに合わせて2人が舞台後方へと向かっていくエンディングに、会場は清々しい感動に包まれた。
 マッツ・エックによる『バイ』(『アジュー』改題)は、このファイナル・ツアーのために作られたとしか思えない、ギエムのダンサー人生を凝縮したかのような一人の女の物語である。部屋の外から中を覗き込み、好奇心のまま部屋の中に入ったギエムは、少女のような純真さや、成熟した人間の機知、孤独といった様々な側面を見せながら、50歳となった今も衰えを見せない驚くべき身体を存分に活かし、ベートーヴェンの最後のピアノソナタにのせてひとしきり戯れるように踊る。新しい世界を求めて部屋の外へと旅立っていく感動的な最後の場面に、ギエム自身の新たな人生への出発を重ねずに観ることは難しい。
 タイトル〈ライフ・イン・プログレス〉に相応しい、未来への希望に満ちたポジティブな終幕に、観客はしばし静かな感動に浸った後、会場はスタンディングオベーションと大きな歓声に包まれた。