もっと楽しく! オペラへの招待 [4] ~オペラは見たままに理解する

2017年5月 9日 17:00

音楽ジャーナリストの飯尾洋一さんによる、大好評の連載コラム第4弾!今回はオペラを「観る」という原点に立ち返り、改めてオペラの楽しみ方を提案してくださいました。ぜひご一読ください。



オペラは見たままに理解する

飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)



ba.jpg



 オペラにつきまとう「居心地の悪さ」には、ずっと悩まされてきた。えっ、なんのこと? そんなの、はなから気にならないよ、という方はいい。でも自分はそうじゃなかった。

 オペラの音楽に対しては全幅の信頼が置ける。大作曲家たち渾身の名曲がそろっている。しかし、問題はストーリーだ。

 いろんなことが気になる。話の展開が唐突すぎてストーリーに付いていけないとか、若い男女のラブストーリーのはずなのになぜ年配の歌手が歌っているのかとか、実は血縁だったという人間関係が多すぎるとか、登場人物の変装がバレなさすぎてシャーロック・ホームズ級の変装の達人ばかりなのはなぜなのかとか、結末で登場人物が絶望のあまり死ぬみたいな不審死は医学的にどういう説明が可能なのかとか、宿敵の赤ん坊とわが子をまちがえて火にくべてしまうなんてことがありうるのか、とか。
 なんだか高級な音楽に珍妙な感じのストーリーがくっついているんだけど、これってどう扱えばいいんすかね。

 この問題に以前はこんなふうに対処していた。オペラっていうのはそういう「お約束」に支えられた伝統芸能なんだから、ストーリーは添え物でいい。主役は音楽なんだし。

 でも、最近、それは違うんじゃないかなと思うようになった。オペラのストーリーは添え物などではないのでは? 一見、不合理なことも、本当は筋が通っているんじゃないか。
 ひょっとして、オペラは目にしたままに理解すればいいんじゃないの、と。

 たとえばこんな感じだ。リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」で牢獄に囚われていたヨカナーンが姿を見せたとき、ヨカナーンの恰幅がやたらとよかったとしたらどう解釈するか。以前なら「いったいこの人は地下牢でどんな豪勢な食事を食べてたんだよっ!」と思わず心の中で静かに突っ込むところであったが、そうではなく、これを見たままに理解する。ヨカナーンの体格がよいのは彼が真の権力を手にしているということを暗に示しているのだ、と。そう解釈すると話が腑に落ちる。同様の作戦はベートーヴェンの「フィデリオ」で幽閉されていた囚人たちがそろってふくよかだったというケースにも適用可能だ。

 10代の役柄をベテラン歌手が歌うのは、歌唱や配役上の都合などではなく、登場人物の精神が肉体に比べて格段に成熟していることを示唆しているから。「コジ・ファン・トゥッテ」や「フィガロの結婚」で変装が相手にバレないのは、「本当はバレているけど互いにバレていないふりをする大人のゲームがくりひろげられている」から。

 そんなふうに「オペラを目にしたままに理解する」と、オペラは一気に真に迫ってくる。どんな作品に対してもこれがうまくいくとまでは言いません。でも、うまくいけば舞台が格段におもしろくなる。
 オペラは案外居心地が悪くない。


 
baee.jpg


ページトップへ